言葉は、それを受け止めてくれる相手がいるからこそ、生きたものになる。
そのことは、特に最近、ことあるごとに、そしてあらゆる場面で頻繁に感じることだ。
本来、相手を想定しないで発せられる言葉が、一体どれだけあるだろうか。
独り言、日記でのつぶやき、それから・・・?
インターネットがこれほどまでに、人の生活に密着したものになってから、
独り言も日記も、もはや自分にだけ向けられた言葉ではなくなってしまった感がある。
そう考えると、ほとんどの言葉は必ず「誰か」に向けて発信されたものだ、とは言えないだろうか。
言葉に、「生きた」ものと「死んだ」ものの二種類が存在するならば、
発せられた時点ではきっといつもそれは「生きた」言葉に違いないのだ。
でもそれを、相手方が上手く受け取れない場合、その言葉は宙に浮き、やがて「死んだ」それとなってしまう。
何もその言葉をよく噛み砕き、上手く消化して、それに更に何かを加えて、
丸めて上質な何かに仕立て上げて投げ返してくれなくてもいいのだ。そんなことまでしなくても。
ただただ、受け止めて欲しいだけなのだ。言葉を殺さないで欲しいだけ。
ある日の昼下がり、市場に出ていた花屋に立ち寄った時、ふと思った。
笑顔と笑顔の間には、生きた言葉が無数に飛び交うものなのだなと。
私が忘れていたものは、これだったのかもしれない。